シリーズ「世界都市論」(1)世界都市論の前の都市社会研究
1980年代、サスキア・サッセンによって唱えられた「グローバル・シティ」論。
ニューヨーク、ロンドンと並んで、グローバル・シティの一つとされたのが東京。
でも実際は、
東京に本社、地方中枢都市に支社、農村地域に工場、みたいな
いわゆる「垂直的国土構造」の恩恵を受けているだけだったりしたので、
色々ツッコミどころはあるみたいだけども。
1980年代といえば、
本社機能、中枢管理機能ともいわれる、
いわゆるトップの機能が
急激に東京に集中した時代でもある。
2020年代現在では、
世界的にみた東京の存在感はかつてほどじゃなくなっているけど、
ここで一度、昔は「都市」というものがどんな風に研究されていたのか、お勉強してみたい。
そんな感じで、なんとなくはじまる「世界都市論」シリーズ。
第1回は、「世界都市」という言葉が流行る前、都市社会研究では
都市がどんな風に捉えられていたのかみていく。
ここでは、都市の「外部」に注目して、
都市社会論の歴史をなんとなくお勉強。
とはいえ、私も今お勉強しながらここにアウトプットしているので、
決して正確な情報ではなく、ふわっとした解釈になってしまうけれど。
それではさっそく、
都市社会学の各フェーズを代表する研究としては、
①M. ウェーバー
②シカゴ学派社会学
③新都市社会学
などがあるみたい。
①M. ウェーバー
M. ウェーバーは、
「なんで西洋社会でだけ近代資本主義が生まれたのか」を
研究テーマにしていた。
ウェーバー的には、
個人が身分制度に強く囚われていた東洋都市に対して、
身分制度が弱体化していたのが西洋都市だったからじゃないか的な見解に至っている。
外から入ってきた「異質」な個人は、
その身分や部族から分離して、
都市での営利活動のなかで再統合されるとな。
だからこそ、都市では
異質な外部が内部に取り込まれ、
都市に活気をもたらすとか。
②シカゴ学派社会学
19世紀末から国内外の移民が急増したシカゴ。
「異質」な人々に対して、
都市はどんな風に生活の場を提供するのか、
空間的・社会的・道徳的にどういう構造になっていくのかが、
シカゴ学派の主な関心だったみたい。
それで結局、シカゴ学派の基本的な都市のイメージとしては、
「異なるものがそれぞれ作り上げる
同質的小世界の複合体としての都市」(町田 1994 p.18引用)
らしい。
細分化された小さな地域同士が共存ということみたい。
③新都市社会学
ここでは、都市の内部と外部を結びつけるものとして
「資本」と「国家」が挙げられている。
資本は、
都市に基盤を置く地場的なものから
多国籍企業のような大資本まで入っちゃう。
国家も、
いわゆる中央国家だけじゃなくて、
地方国家としての地方自治体も含まれる。
そんなざっくりとした主張は
色々と問題があるけれど、
ひとついえることとしては、
「国家としてみても、
資本としてみても、
都市がより大きなシステムの中に組み込まれちゃってるよね」
っていう認識が広がったんだって。
だから都市にとって
資本と国家は、
「介入してくる外部」(町田 1994 p.20引用)
という位置づけになったと。
まとめ
この3つの研究から、
都市と「外部」の関係について共通しているのは、
「異質性」と「権力」ということ。
そもそも都市をめぐる社会理論では、
その内側と外側の関係性だったり、
タテの関係である「権力」とか
ヨコにみたときの「異質性」がキーワードになるらしい。
都市っていうのは、開かれた領域だから、
異質な外部が出会うところでもある。
そこでその「異質」なものは、
異質なまま内部化されるのか、
同質化されるのかということも論点になる。
権力についても、
都市が固有する「権力」が支えるんじゃなくて、
より広域的なシステムの一部に取り込まれるようになったと。
その広域的なシステムを支えて介するのが、
国家や資本にあたる。
じゃあ「世界都市」論が活発化した1980年代では、
この状況がどんな風に変わったのか。
この2つの外部性の範囲が、
グローバルという
ある種究極的なかたちで拡大した世界都市。
続きはまた今度。
参考文献:町村敬志(1994)『「世界都市」東京の構造転換』東京大学出版会